明朝まだ薄暗い中、キャンプ場を出発した。
ホルンストランディルのトレイルで一番高い標高を超えるルートを歩く。
この数日で重たいリュックを背負って歩くのにも慣れたつもりだったけど、何度も息がきれて歩みを止めなければならなかった。
昨日渡った川がもう遠くに見えた。高台に来るまでは見えなかったいくつもの細い川が合流している。渡渉した時はあんなに大きく感じたのに、今では細い血管に見える。

さらに標高をあげると山の上は雪景色だった。
雪上にうっすら残された誰かの足跡を辿っていく。
雲の中で雪と溶岩石だけを見ていると、まるでモノクロの世界にいるようだ。

山頂を越えると川が現れた。
岩を踏んでいけば水に入らずに渡渉できそうだ。
足場になりそうな岩を探しながら川を渡ろうとしているとネモちゃんが大声を出した。
「やば!!」
勢いよく流れる水に、ポールを流されてしまったのだ。
二人とも追うこともできず、どこかに引っ掛かってくれ!と願うしかなかった。
流れていくポールを見つめていると、奇跡的に浅瀬に流れて行き2つの岩に引っ掛かってポールが静止した。
ネモちゃんは急いで靴を脱ぎ、雪解け水の中にポールを回収しにいく。
一瞬の出来事だったが、私たちはポールの救出に大喜びした。

ここで私はだいぶ体が冷えてしまったので、体を温めるためにも一気に山を降っていった。
この時この旅の中で1番速く歩けたと思う。
命の危機を感じた時の人の体は思わぬ力を発揮するんだな。
都会の生活では知ることはできなかった、眠っている自分の身体能力を起こしたような感覚だった。火事場の馬鹿力というやつかもしれない。
無事に船着場に着いた私たちは、船が到着するまで雨と寒さを凌ぐために公衆トイレに避難していた。
小屋の中の温かさがありがたくて臭いなんて気にならなかった。

あとからアイスランド人のグループが降りてきて、一緒に船を待ちながら踊って体を温めた。
予定の時刻から1時間ほど遅れて、遠くから小さい船が来るのが見えた。みんなが同時に安堵の声を上げた。
船に乗り、皆でずぶ濡れの雨具を壁にたくさん掛けたので物凄い湿度だ。
私はチョコレートをむさぼり食べてから、船を降りるまで気を失ったように寝た。

イーサフィヨルズルの街に到着。
北欧らしいカラフルな家を背に、ホルスタンディールの方角に目を向けたが、低い雲に阻まれて半島は見えなかった。

さっきまでのトレイルが、すでに夢だったかのようだ。
街を軽く散策して、私たちは次のトレイルに向かうためにレイキャビックに戻るバスに乗った。
アイスランドでの旅はまだ終わらないが、今回のお話はここまで。
アイスランド人でもなかなか行かないという果ての地で、人の気配をほとんど感じずにこの数日を過ごした。
これほど人の手が加わっていないトレイルを歩くのは私にとって初めての経験であり、貴重だった。
死ぬまでに、またここに来ることはあるだろうか?
フィヨルドの岬をいくつも越えていくバスの中でふと思った。

またいつか来よう。
短い夏にだけ沸き立つ動植物の生命力を感じに。
北極狐に会いに。
おしまい。
